常識にとらわれない、
個性的な武しょう
- 職 業
- 武しょう、戦国大名
- 時 代
- 戦国時代〜安土桃山時代
- 国せき
- 日本
織田信長ってどんな人?
織田信長は1534年尾張国(おわりのくに:今の愛知県西半部)の戦国大名の子として生まれました。信長の父は、尾張国内で力を持っていた織田信秀。信長は名門の生まれだったといえます。
ところが、子どものころの信長は「うつけもの」(空っぽ、うっかりしている人のこと)とよばれていました。見た目を気にせず、こしからひょうたんやわらじをたくさんぶら下げていたそう。外見だけではなく、勉強中は先生の話を聞かない、食べ物を人から横どりする、街を歩くときも何か食べながら歩いてみたり、そのふるまいからはとても生まれ育ちのよいはずの「武士の息子」には見えなかったといわれています。
そんな、変わり者と思われていた信長ですが、実力がある人なら出身地や階級にこだわらず出世をさせる、平等な評価をする人物であったともいわれています。村人ともわけへだてなく付き合い、やさしさを感じる一面もあったのです。
織田信長は「ひえい山焼きうち」*1 に代表されるように、とても残こくだったと語られていますが、食の好みはあまいものが好きで、かわいらしい一面もあったようです。地元の名産だったほしがきは大のお気に入り。人目を気にせず、くり、かきなどあまい食べ物にかぶりついていた様子も当時の本に記されています。ポルトガルから来たせん教師*2にさとうがしのコンフェイト(こんぺいとう)をプレゼントされたこともあったようです。あまいもの以外の好物としてよくあげられているのは「焼きみそ」。湯づけとよばれる、お米に熱いお湯をかけて食べる食事(現代のお茶づけの元祖)に合わせて、ネギやしょうが、酒を加えて練ったみそを火であぶって焼いたものを好んで食べていたそうです。
- *1 1571年、おぼうさんをはじめ女の人や子どもなど、たくさんの人がなくなった滋賀県のひえい山延暦寺で行われた戦いのことをいいます。
- *2 せん教師とは、しゅう教を外国に伝え、広める人のことをいいます。
- 出典:『信長公記』、ルイス・フロイス著『日本史』、『異国叢書』
そもそも「みそ」は、大豆や米、麦などをむしたものに食塩とこうじを混ぜて、発こうさせたもののこと。日本の伝統的な「発こう食品」です。
平安時代ではみそは「高級品」、薬として利用されるほど役立つものとして大切にされていたといわれています。鎌倉時代に入ってからは「みそしる」として利用されるようになり、室町時代には武士以外の人々にも広がっていきました。信長の生きた戦国時代では戦での食事として、またほぞんできる栄養食として親しまれていったのです。
- みその栄養について
- 戦国時代、みそは調味料でありながら、大切なたんぱく質として大事にされたものです。現代でも、みその主原料の大豆は「畑のお肉」といわれる良質なたんぱく質。さらに発こうによって大豆にはないアミノ酸やビタミン類がふくまれ、栄養価の高い食品です。大豆のまま食べるより、発こうによって体内にとりこまれやすくなっている点も「みそは健康にいい」といわれる理由です。最近では、みそにふくまれる大豆レシチン、植物性ステロール、サポニン、リノール酸、ビタミンE、ペプチド、食物せんいが血中コレステロールが上がるのをおさえる効果がある、ともいわれ、改めて注目されています。
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※写真はイメージです。
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江戸時代中期に書かれたいつ話集「常山紀談(じょうざんきだん)」によると、坪内石斎という、三好氏(みよしし)に仕えていた料理人が信長の料理人となったエピソードが記されています。坪内は織田方にとらえられ、信長に仕えるか、気に入られずに殺されるかのせとぎわに追いこまれてしまいます。そこで信長に料理を作り食べてもらうテストが行われたのですが、「水っぽい!まずい!」京都風の上品なうす味の料理に信長は大変おこりました。「もう一度チャンスをください、それでお気にめさなければはらを切ります」と坪内は信長にお願いし、次は田舎風のこい味の料理を出しました。すると、その味がたいそう気に入られピンチをのがれることに成功。信長のシェフになったといわれています。
- *この坪内石斎という人物についてはいろいろな説があり、実在しなかったのでは?という説が有力といわれています。ですが、「常山紀談」に書かれていたことで、その後現代までさまざまな作家たちの想像力をかきたて、信長という人物を表現する上で「坪内石斎(料理人)を登場させると面白い!」と、数々のドラマやマンガ、小説などのモチーフになっているのでお伝えしました。
みそを使ったレシピを
見てみよう!
- 味噌バターラーメン
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織田信長が現代に生きていたら、みそとバターの組み合わせも気に入ったはず!
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