讀切・銀座カリー物語 ―山田君(鈴木君)登場―

壱
「東京に行つたら、銀座に行け。いい物を見て目を肥やせ」。偶の休みに、何故か郷里の父の言葉を思ひ出し、初めて銀座へ歩いて行つた。高さうな店が並んでゐる。安さうな露店も並んでゐる。然し何れが果していい物か、見当も付かぬ。歩き廻る内腹が減つた。洒落た洋食店の店先に、カリーの好い匂いが漂つてゐる。貧乏書生の吾が身には、実に此が一等の憧れであつた。
弐
同僚の山田君は、カフエーへ行つた事が無いと言ふ。さらば拙者が指南して進ぜよう、是も社会勉強とばかり、会社帰りに市電に飛び乗つた。「時に俺は金は無いゼ」。「ソンナ、俺も無いぜ…」。ヤレヤレ、花の銀座も安月給の身には縁も無し。「飯でも喰はうか」。「何が喰へる」。「カリーだ」…。男二人で這入つた洋食店のカリーは、其でも憧れの銀座の香がした。
参
同僚の山田君は、タイピストに成つた妹の事が心配で堪らぬと言ふ。「モガではないか」。「イヤ蓮つ葉な計りだ。さうだ、君も意見してやつて呉れないか。例の銀座の洋食店で如何だい?」。かくて初対面と相成つた妹君、兄に似ず可成りの別嬪ではないか。慎ましくカリーを口に運ぶ仕草に見惚れてゐると、「君、若しや惚れたか!」と、流石は山田君、伊達に兄はやつてゐない。
四
同僚の山田君は、美人の妹を一度紹介したきり其の後中々会わせて呉れぬ。「俺を野獣とでも言ふのか」と気色ばむと、「君には妹を淑女として扱へなからう」と勿体を付ける。「如何すれば善いのだ」と問へば、「銀座で食事をするのだ」と妙な返事である。「金は無いぞ、何ンの食事だ」。「カリーが好い」と、此は明らかに当人も付いて来る積り、接待の要求であつた。
五
生れて初めて、銀座でデイトなるものをした。何時にも増して別嬪に見える彼女が眩くてならぬ。「例の洋食店でカリーでも?」と誘ふと、「兄と一緒にお会いした時もカリーでしたわね」と、クスツと笑ふ。「お気に召しませんか?」と俯けば、「イエ、私もあのお店のカリーが大好きよ」…読者諸君、笑ふ勿れ。此の一ト言が、小生をして一生の伴侶を決断せしめたのである。
六
妻がカリーを作ると言ふ。「だつて、貴方お好きでせう?」と、亭主が言ふのも何ンだが新妻らしく初々しい。暫く台所に籠つてカリー粉やら小麦粉やらバタやらと悪戦苦闘の様子。無聊にラヂオを聴いてゐると、ふと暖簾を分ける気配がした。「ね、貴方」。「何ンだい?」。「今晩は御茶漬け位にして、美味しいカリーは、明日銀座の洋食店で戴くといふのは如何かしら?」
七
「貴方、今度といふ今度は許さなくてよ!」と、怒り心頭の細君である。ナニ、浮気博打の類では無い。結婚記念日を失念して、同僚の山田君とビヤホオルで呑んでゐた迄の事。イヤ、断じてカフエーなぞでは無い。平謝りに謝つて、銀座でのデイトを約し、やつとの事でお許しを戴く。お安く無い?イイエ、実は我が細君のお目当ては、某洋食店の一ト皿のカリーなのである。
八
「エツ、カレー?」。「ウナギデモオスシデモイイノヨ」…。米寿を祝ふと言ふ孫達に、銀座のカリーを所望したら此の体たらく。柳並木の洋食店の、あのモダーンな華やぎを知らぬのか。「プロポオズも銀座のカリーだつたわネ」と細君も遠い目をする。「デモオヂイチヤン、ホラ、コレミテヨ」。「おゝ、銀座カリーがレトロカリーに!」。「嫌ね貴方、其を仰有るならレトルトカレーでせう?」
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